関東牛刀


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当社で製造している刃物(牛刀・洋包丁)は幕末より明治にかけて欧米より食肉文化(洋食文化)と共に日本に伝播した物であると歴史的見地から解釈されます。
洋包丁は、日本古来より使用されてきた地金と鋼を着鋼する和包丁の製法と違い、どちらかというと日本刀と同じく、まるはがね(全鋼)方式で造られています。
明治に入り廃刀令が施行されて以降仕事が激減していた刀鍛冶が、その技術を生かして洋包丁造りの研究に取りかかっていった事は容易に想像がつきます。
また、関東においては江戸に幕府があったこともあり、腕の良い刃物鍛冶職人がそろっていたため、洋包丁を総手造り(総火造り)する技術が徐々に鍛冶職人たちの間に伝播していき良質な洋包丁が造られるようにいきました。

 

この洋包丁は、元々が洋食、ぶった切れば良しという外国人の感覚で使用され、切れ味にこだわる日本の刃物とは違う考えで造られているので、日本人には大変使いづらい物でした。
また、洋食文化自体 都市部の一部レストラン等店舗以外にはまだまだ普及しておらず、洋包丁の需要も肉屋やシェフ以外には無く、洋包丁造りは殆ど関東圏内でしか行われていませんでした。

 

その後、第二次世界大戦が終結し、戦後の復興が進むと同時に日本でも洋食文化が浸透していくと、牛刀等の洋包丁への需要が急速に拡大、関東での牛刀造りが隆盛を迎えます。
この関東における牛刀造りの隆盛期、圏内には正次(当社・関守永師)、正金、正宗、村定などおよそ20件近くの腕の立つ牛刀専門鍛冶が名を並べました。
そして、その銘には関東で造られた牛刀を示す「東源」という頭文字が刻印され、関東牛刀という確かな品質のステータスとなりましたが、同時に、いち早く大量生産に目をつける業者が出始め、その拠点として当時洋食器で有名であった新潟県燕三条市や、古くから刃物の町として有名だった岐阜県関市などの地方に生産の場所を移し、今まで柄付け以外の全行程を小規模の工場で、数人の職人さんが手作業で一貫生産していた方式を、中・大規模工場で全行程オートメーション生産、もしくは、型抜きを行うプレス屋、研ぎおろしは研ぎ屋、焼き入れは熱処理屋といたように、全行程をそれぞれ専門工場に依る分業生産となり、生産性アップ、コストダウンを計っていったのです。

 

結果急速に地方での牛刀の大量生産、改良が進み、その使いやすさ、手軽さから一般にも牛刀が浸透し始め、その需要が増える一方、大量生産には向かず、どちらかというと玄人受けしかしない、手造りの関東牛刀の需要は急速に減退していき、都市部にいた鍛冶屋も激減。
「東源」の頭文字も刻印されなくなっていきます。
その後昭和の終わりを待つまでもなく、関東圏内の牛刀鍛冶は片手で数えられる程になってしいました。

当社で、親方として製造責任者兼技術指導に従事していただいている関守永師は、その中の一人であり、柏市増尾で長年、関ナイフ製作所を営み、牛刀をはじめとする洋包丁や、ナイフなどの制作に携わってきた人物です。

また、大量生産の影響が柄屋にも現れています。
大量生産の牛刀は、最初から同一規格でプレス抜きし形もカシメ穴の位置も同じため、材料屋から規格に準じた形で柄材を仕入れれば手間も職人も必要無く、コストも安く大量に仕上がってしまいます。
一方、コミの形や穴の位置が微妙に違う総手造り牛刀に対応できる体制を持つ柄屋は無くなったために、当社では、自社製品の柄付け作業を兼業しており、洋包丁鍛冶には稀な全行程一貫生産をとれるような体制になっております。

このような歴史を経て改良に改良を重ねられた牛刀は今、一般の家庭でも主流として使われていますが、今や牛刀の主要産地が関東にあったこと、そのブランドは他の追随を許さなかった事を知っているのは業界でも古くから居る一部の人達だけのようです。